第1033回 例会 2023年1月25日(水)
更新日:2023/01/25
第1033回 例会
ビジターならびに、ゲスト:おみえになりません
本日の卓話担当:神谷 宏君
1.点鐘
2.ロータリーソング斉唱(第3週)
3.稲垣善朗会長 挨拶
皆さん、こんにちは。
ゲスト及びビジターの方は、本日はいらっしゃいません。本日の例会は神谷宏さんに卓話をお願いしております。
テーマは「僕の物語、目次編」ということです。
よろしくお願いします。
先程も声を出して歌うことができませんでしたが、コロナも随分落ち着いてきたと思います。
また近いうちに声を出して歌える日を期待しております。
さて、今中国では春節ということで海外に旅行される人が多いということです。
また、国内でも、移動が活発になっているそうで、中国から日本に旅行される方も多くいます。
先日デパートに行ったところ、何人か中国の方を見かけることができました。
また、日本でも海外に旅行されたり、海外で活躍される方々が多くいらっしゃいます。
どうやら海外の方に聞いてみると、様々なアジア圏内の観光客がいる中で、日本人は比較的簡単に見分けることができるそうです。
まず、日本人はとても不用心だそうです。
レストランで席を離れる時、平気でスマホなどを置いて席を離れたり、男性ではお尻のポケットに財布を入れたり、女性では鞄の蓋を開けたままにするなど、そういった姿から日本人であると見分けるそうです。
次に、日本人はエレベーターに乗った時に「閉」のボタンを押すそうです。
私もエレベーターに乗る時はだいたい、「閉」のボタンを押してしまいます。
それを見て、日本人だと見分けることができるそうです。
海外の方からは、そのわずかな数秒で何かが変わるのか、と思うそうです。
そして、日本人の歩き方には特徴があるそうです。
実際、どのような特徴があるのか分かりませんが、女性によく表れる特徴だそうです。
住んでいる環境によって変わってくるものではないかと思います。
色々な習慣がありますが、それは悪いものではなく、住んでいる国や地域、そういったものによって身につくものだと思います。
さて、今日も大変寒くなっております。
皆さんも是非健康に留意されて、健やかにお過ごし願いたいと思います。
ありがとうございました。
4.食事 (会長)
5.丹羽 修幹事 報告
(1)本日12時より定例理事会を開催しました。
(2)本日例会終了後、第1回細則検討委員会を開催致します。委員の皆様のご出席をお願い致します。於2Fパーティールーム。
(3)次週例会終了後、クラブアッセンブリーを開催します。本年度の理事、委員長の皆さまのご出席をお願い致します。尚ご欠席の場合は、代理の方のご出席をお願い致します。
(4)4月15.16日に開催されます、WFFのチケット購入をご希望の方は、クラブにて一緒に注文致しますので、事務局までお知らせください。
(5)他クラブの例会変更は、事務局にお問い合わせの上メーキャップをお願いいたします。
僕は自分のことは話さないとしていたのですが、今回突然気が変わりまして自分の話を話してみようと思いました。
1つ1つのことに対して話していると時間が長くなってしまうので、目次編という形にしました。
僕はサラリーマンをやったことなく、大学を卒業してから自分の会社、父親の会社の後を継いでいるのですが、つくづく自分には経営の才というのが無いなと思っております。
才能とはもって生まれたもので、無いのはどうしようもないもので、やることなすことほとんど失敗しました。
大きいのは自分で作った株式会社を倒産させてしまったことです。
今から20年ほど前です。
不動産なんかを担保に入れていましたので一切合財無くなりました。
今思いますと、大したことはなかったなと思います。
私が学校に入った時は国民学校という名前でした。
戦時中は今西町小学校のところが分校ということで1・2年生だけが行くところでした。
3年生になると本校に通うようになりました。
そうすると現在の東海道線の踏切を渡ることもありまして、通学班というものができました。
通学班長は石原和重一成さんでした。
高等科の生徒が正門の両脇に立っていて登校してくる通学班の列が乱れていたりすると、やり直しと言われ、元に戻って列を作り直していくというようなことが時々ありました。
付属中学というのは、教師を目指している学生の教育実習の場としてあるのでよく学生の授業がありました。
まだ若いし、まだ勉強していないことが多い、それをからかったりしていました。
先生は軍隊から帰ってきた若い先生で、勢いが良く自分が何を悪いことをしたのかわからずによくビンタをされました。
高校は安城高校、当時は学生で安城に住んでいる学生は安城高校と決まっていました。
要領の良い人は岡崎の方に戸籍を移して、岡崎の方に通っていました。
車の免許は当時、16歳から取得できましたので、私は16歳と5日で岡崎の試験場へ行って試験を受けて合格しました。
自動三輪車もついでに取りました。
それから大型自動二輪も取ったりしました。
大学は北海道大学に入りました。
なぜ北海道かというと、遠いところへ行ってみたかったという単純な動機です。
ちょっと外国へ行ったような気分でした。
当時の北大は、理類と文類と水産に分かれていましたが1年半のうちは学部を分けずに教養科目を学びました。
1年半が過ぎると、私は理学部物理学科というところへ行きました。
京都大学等の大学から有名な先生方が講義をしに来たこともありました。
こんなことは当たり前だと思っていましたが、今になって有名な先生方のお話を聞くことはめったにできることではないのだなと思いました。
ヨット部とスキー部に入りました。
単純な考えで、夏はヨットやって冬はスキーっていう考えでしたが、ヨット部は夏だけだったのですが、スキー部は夏でも山へ登ったりということがありました。
プロになって有名になった三浦雄一郎さん、彼は私より3・4歳上ですけれども、留年していて卒業する年は同じになりました。
ですので5年間毎日ではないですけれども、何度か合宿とか一緒に行きました。
それから三浦雄一郎のお父さんの三浦敬三さん、青森のあたりを本拠にしていて当時スキーの本などを描いていました。
当時のヨットは木造で作った船で、乾燥すると間ができて水が入ってきてしまったり、それからヨットを陸に上げると塩水で濡れていて腐ってしまうので、水できれいに洗うというのが大変でした。
東北大学との対決や旧帝大でのレースがありました。
京大が主催の時は琵琶湖でしたね。
大学がたくさん参加するインカレというのもありました。
部活を2つやっていると授業に出ている暇もなくて、4年終わると卒業なのですが、その時に数えてみると私は単位が2つばか足りなくて、卒業できないということで、もうひと冬スキーを楽しみました。
何とかその間に足りなかった単位が貰えて、卒業しました。
卒業して、家業を継ぐために安城に戻りました。
戻ったのが1960年、昭和36年でした。
かえって早々石原さんが来られ、何かわからず出かけたら、そこができたばかりの青年会議所でした。
1973年に私が理事長になりまして、その年が愛知ブロック大会っていうのを安城が主催しました。
会社の従業員を集めるのに大変苦労していまして、鳥取県で高校の先生をしている知り合いを思いだして、交渉に行ったら人を連れて行くより、工場を持ってこいと言われ、工場を持っていくために準備を始めました。
しかし紡績の工場を作って計算しても採算が取れないということになりました。
アメリカへこういうものを売ってみたらどうだと進められて、始めてしまいました。
1969年に、パイロットの試験を受けて合格しました。
1972年に日米繊維協定、日本がたくさん輸出してアメリカの企業がたくさんつぶれてしまったので、日本に設備を減らすために買い上げが行われて、それに応じて紡績業を廃業しました。
1970年頃に中学校のPTA会長をやりました。
1981年には安城市国際都市交流協会のメンバーとしてハンチントンビーチへ姉妹都市の交渉をしに行きました。
それから1982年には安城東高校のPTA会長になりました。
1985年にはプラザ合意というので主要国の財務大臣が集まって、ニューヨークのプラザホテルでドル高の是正ということですがその合意をしまして、円高になりました。
230-240円くらいが1ドルだったのに150円くらいになったので、日本からの輸出はほとんど採算が合わなくなってしまいました。
話は前後しますが、1977年に安城ロータリークラブに入会しました。
そこに平岩先生がいらっしゃいました。
僕は先生の自慢の教え子だったようであちこちで仰られていました。
1984年に都築功会長の幹事を仰せつかりました。
1986年には安城ロータリー30周年事業としてしまいクラブを作ろうとして、当時市が姉妹都市を結んでいたチェルノブイリのロータリークラブから数名の訪問団が来まして、その接待をしました。
1988年には姉妹都市提携をするということで、オーストラリアに行きました。
1988年には植村さんや石原さんの推薦のおかげだと思いますが、安城市の教育委員会に入りました。
1993年には教育院長になって、1999年、安城ロータリークラブの42代の会長になりました。ロータリーの長年の懸案だったのが、新クラブを作ることでした。
堀尾君とも相談しましたし、植村君からも助言をいただいて作ることにしました。
しかし、反対する人もいて、非常に強い反対を受けました。
最終的にお前が出ていくなら拡大してもいいという条件が出まして、私は自分が新クラブへ出ていくとは思っていませんでしたが、それならありがたいと思って新クラブに来ることにしました。
先ほども冒頭に言いました、2002年には会社を倒産させてしまいました。
その時にロータリークラブを退会しました。
今ここにもおられましが多くの方が集まって私の激励会を開いてくれました。
激励してくださった皆さんに感謝申し上げます。
その次の年に脊柱管狭窄症が悪化しまして、手に負えないということになって安城の厚生病院で緊急手術を受けました。
夜7時頃から翌日の2時ごろまでかかったと聞きました。
目が覚めたら執刀医が来て、手遅れだったから歩くことはでいないだろうと言われました。
時間ですから終わりますけれども、いろいろ書きましたが、ささいなことばかりです。
些細なこととはちぎり絵のようなものです。
ことわざで塵も積もれば山となるとありますが、もうしばらくの間頑張ります。