第1016回 例会 2022年8月31日(水)
更新日:2022/08/31
第1016回 例会
ゲスト:安城市教育委員会生涯学習部文化振興課 齋藤弘之課長補佐兼文化財係長
本日の卓話担当:齋藤光正君
1.点鐘
3.稲垣善朗会長 挨拶
皆さん、こんにちは。
本日はゲストに、安城市教育委員会生涯学習部文化振興課課長補佐、並びに文化財係長の齋藤弘之様をお迎えしております。
後ほど卓話をお願いします。
さて、今日の挨拶は悪いニュースから始めさせていただきます。
今月25日に会員の成田さんの事業所、成田建設の事務所で火災がありました。
倉庫は全焼、事務所の一部が焼けてしまったと聞きました。
現在、社員全員で復旧をしているそうです。
お見舞い申し上げます。
また、募金箱を回させていただきますので、ご協力をお願いしたいと思います。
今日は台風について話させていただきたいなと思います。
今、台風11号が沖縄の宮古島の方に向かっているそうです。
ニュースでも、非常に大きい台風だと言われております。
台風というと毎年8月9月が多いわけですが、台風の数は平均で毎年25個ほどだそうです。
今年の予想は23個ほどだそうですが、こちらに向かってくる台風がまだあると思います。
気をつけないといけないと思っています。
台風の起こる原因としてよく言われるのは、乱流現象だとか、インド洋のあるスポットによって、フィリピンの西海上で風の対流がよく起きるそうです。
そして発生した台風は、9月になると南に下がってくる偏西風の影響で日本に上陸するようになる、と言われております。
台風というと、すぐに思い出すのは、伊勢湾台風です。
皆さんの中には経験された方、経験されてない方もいらっしゃるとは思いますが、私は子供の時に経験しております。
経験と言ってもあまり覚えてないですが、港区にある母親の実家が流されてしまいました。
高台の学校に避難していて、お見舞いに行った覚えもありますし、父親が家と店を守るために必死に祈っていたことは幼心に覚えています。
また、自分の家の話ですが、この季節にスズメバチがよく巣を作ります。
見える範囲に巣がある年は台風が来ない、見えないところに巣を作る年は大きな台風が来るということが実際にあります。
今年は見えないところに巣を作っているので、大きな台風が来るんじゃないかと大変心配しております。
近年は大きな台風や自然災害、中国の干ばつがあったり火事があったりと大きな災害が各国で起きておりますので、ぜひ気をつけて、対策等をとっていただきたいと思います。
ありがとうございました。
4.食事 (会長)
7.本日の例会
8月31日(水)例会(第1016回)
卓話 :『本證寺三河一向一揆〜大河ドラマ「どうする家康」の歴史背景〜
卓話者 :安城市教育委員会生涯学習部文化振興課 課長補佐兼文化財係長 齋藤弘之様
卓話担当:齋藤光正君
本日卓話を担当させていただきます、齋藤です。
何を話して良いのかわからなかったものですから、お盆に兄に会った際にちょっと卓話やってくれないかなと頼んだところ、たまたま兄の方も市として携わっている本證寺のプロジェクトの関係で皆様にお話しする機会があればということで引き受けてくれました。
先ほどニコボックスにも書きましたけれども俗世にまみれた話ではなくアカデミックな話、聞いていただけたら幸いです。
今日はどうぞよろしくお願いします。
皆さんこんにちは。
本日卓話を担当させていただきます齋藤弘之と申します。
私事であれなんですが、弟が皆様には大変お世話になっております。
いつもありがとうございます。
それでは時間のこともありますので早速話をさせていただきたいと思います。
ご覧にいただきましたこの本證寺、安城市の野寺町にあるお寺です。
実は今日の副題にもありますように、来年の大河ドラマが「どうする家康」ということで、本證寺というのは家康の三大危機の一つになります。
おいおい出てきますが家臣団が分裂をしてしまって、それで家康が大変困ったということがありました。
本證寺の始まりですけれども13世紀末くらいだいたい700年くらい前にできたと考えられます。
現在の西尾市小島町にいた慶円が新しく仏教を教える場所を見つけるため山頂から矢を放ち、矢が刺さった地にいくと、聖徳太子を祀る小さなお堂があり、その場所が現在の野寺であるという伝説があります。
一方、家康の方はどこから話をすればいいのか迷いますが、安城城に家康はいなかったのですが、家康のおじいさんの代まで4代にわたって本家があります。
歴史博物館のすぐ隣にある現在大乗寺というお寺で、信長の父さんと家康の父さんの間でこの安城城を奪い合うという、そういう戦いが10年間繰り広げられました。
最終的には松平・今川勢が捕らえた織田信広、信長のお父さんと織田の人質であった竹千代が西野で交換されたというお話です。
詳しく見ていくと、戦ったのは家康のお父さんと信長のお父さんですね。
最後に今川義元が絡んできます。
1540年に織田信秀が安城城を攻撃し、奪いに来ます。
その後、広忠つまり家康のお父さんが安城城を奪い返そうとするんですが、失敗してしまします。
1547年に実はこれも大きなポイントなんですが、今川の人質として、つまりお父さんもうこれでは松平の力だけでは安城城を奪い返せないということ、で今川義元に援軍を要請するんですね。
ただ今川は、それだったらお前の息子を人質として出せということで、今川氏の人質として駿河、今の静岡県へ向かう途中奪われて、織田氏の人質となってしまいます。
もしかすると、ドラマはこの辺のところから描かれるのかなという風に思っております。
その後、1549年に松平広忠つまり家康のお父さんに暗殺されます。
そして今度は、今川軍は太原雪斎というお坊さんが、松平軍と共に安城城を攻撃し、安城城を奪い返します。
この時に城主、城代を務めていた信長のお兄さんを生贄にするんですね。
資料的に言うと、この時に信長と竹千代つまり家康が終わりで出会ったと裏付けるものはありません。
ただ実際にこの時にまぁ約2週間尾張、今でいう熱田ですが、竹千代は人質生活をしてますので、全く知らなかったいうわけではないと思います。
ただ、竹千代はここで一旦、岡崎に戻るんですが、すぐに今川氏の人質としてまた駿河、静岡の方へ行ってしまいます。
そこでですね、1つ大きなターニングポイントが出てきます。
三河一向一揆です。
1553年に今川義元が、今川義元の仮名目録の追加21条のうち、第20条にこういうことが書いてあるんです。
将軍が設定した不入特権は成立しない、今川家が守護時代に従っていた特権は撤廃するということになりました。
この不入特権というのが大きなポイントなんです。
これを家康が、それを桶狭間の戦いで今川義元が討たれた後、岡崎に帰ろうとしたら、新手の勢力が「この不入特権っていうのは、今までずっとやってきたもんだから、そのまま継続しなくちゃだめじゃないですか」という風で起きたのが三河一向一揆だということです。
本證寺側、第10代の住職が空誓という人がいました。
空誓というのは、円海が加賀の一向一揆に参加して若くして亡くなってしまったので、ひ孫にあたる人を婿養子として迎えました。
当時は親鸞をはじめ、本願寺の宗主と言いますけれども本願寺の宗主が血縁の近い人から選ぶという、当時は血縁主義ですので、最も空誓が三河の中で血縁が宗主に近く、事実上のリーダーとされるわけです。
空誓が婿養子に来た翌年に、三河一向一揆が起こってしまいました。
当時の本證寺のいわゆる備えですけれども、先ほど申し上げたように東西が320メートル、南北が310メートル、深くて急な斜面が出てきます。
堀の底にいったん降りた後土手を約6メートルとか駆け上がらないと中に入れない。
他のいわゆる寺内町はですね、外と内をですね区切るような浅くて広い堀だったのに対してこうした極めて城郭的な堀で本證寺は囲まれていました。
若干ですけれども現在も残っています。
もう1つ当時の岡崎城はどうだったかというところをお話しようと思います。
今は立派な天守閣が復元されていてありますが、こけらの木などを木を瓦のように繋げて、屋根にしていました。
それに比べると、本證寺では既に瓦が使われていました。
これは発掘調査の結果から出ていますけれども、むしろ岡崎城よりも立派な建物が本證寺にはあっただろうという風に考えられます。
もう1つ。
火縄銃の球も出土していますので、三河一向一揆が起こったのが1563年、種子島に鉄砲が移ってきたのが20年前の1543年ですので、現在の技術革新がゆっくり当時にしては20年で、言い方悪いですけれどもこんな田舎に火縄銃が持ち込まれたという、逆に言うと驚くべきことです。
寺内町というとイメージですけれども、実際には城塞都市といった方がいいのかもしれません。
そんなようなのが本證寺で、石の壁ではなく土の壁ですをイメージしていただければと思います。
いよいよ三河一向一揆これで起こります。
1563年、三河、三ヶ寺、本證寺、上宮寺、勝鬘寺、本宗寺と領主であった家康と対立をします。
きっかけについては2つ説があって、本證寺で起こったという説と上宮寺で起こったという説がありますが、安城市内でいいますと小川町金政というところで戦闘して円光寺の住職の順正という人が空誓の身代わりとなって自害しました。
江戸時代に作られて、これを見ると30代から40代に見えますが、当時お寺の年称では7歳のことだったといいますが、当時は結婚は非常に早かったので、20代半ばだったのかなと思います。
家康軍が西尾城に、兵糧つまり食料を供給した帰りに一揆勢と戦闘になり、一揆勢が劣勢になるとそのまま本證寺に攻め込まれるのを危惧した順正が「のでら 本證寺 空誓とは我のことなり」と言って自害をしたので、それで家康は敵の大将が亡くなったのならということで岡崎に引き上げました。
だから、本證寺は戦火にまみえることはなかったというお話です。
一揆勢と家康側ですが、あちこち入り乱れています。
面白いのは当然のことながら、一揆勢なんですが藤井城の松平氏は家康方だし、一方桜以上の桜井松平氏は一揆型についているということで敵味方にわかれて家臣団が分裂をしました。
で、和議の内容なんですが、これはちょっと愕然とします。
一揆勢から示された和議の条件が曖昧だったこともあり、家康はいったん受け入れます。
しかし、一向宗の大衆が言本願寺教団から離脱せよ言い出しました。
前の条件に含まれていません。
だから、前のは関係ないだろうというのが家康の屁理屈なんですが、明らかに無理難題を押し付けています。
結局、武装解除してしまったので、一揆方にも反抗する力が残っておらず、寺を破壊してしまいました。
家康が出された本證寺の福音状ですが、お寺、道場、屋敷と家来は寺内の中に住んでいいと良いというものでした。
本證寺の本堂が建てられた後、この寺内の外堀の中に住んでいた人達が中心になって本堂を再建します。
江戸時代は69国しか無かったんですが、実は本證寺はそえしょけんと言ってそれぞれの末寺から本山に上げるときの中間手数料を得ることで非常にお金持ちになります。
江戸時代には多くの末寺を抱えて大きな勢力をもって今に至っています。
「どうする家康」に合わせて、来訪者はどの程度かっていうのは予想は大変難しいですが、増えるだろうと思いますから、経済的活性化には一定の効果は出るだろうと思います。
これ実は昨日本證寺のご住職と話をしていたら、本證寺にある一定の人が来た時に何が困りますかって言ったら、やっぱり現時点では土産物がないと仰っていました。
徳川家康がやってから実に40年ぶりなんですが、私達が考えるプロモーションというのは決して町の知名度を上げることだけではなくて、市民の郷土愛を形成し、安城の歴史に興味をもったという人を増やしたい。
歴史ある安城が好きだ。
安城に住んで良かった。
これからも安城に住みたい。
安城に地域のために何かやりたいと。
そういう人をこの1年間を通して増やしていきたいと思います。
今日はありがとうございました。
8.閉会 (会場委員会)
9.点鐘
今後の予定
9月7日(水)例会(第1017回)
卓話 :『心に残る患者』
卓話者 :西尾市民病院 松崎正明前病院長
卓話担当:都築征成君
〇第1回指名委員会 例会終了後 於ラウンジ
9月14日(水)例会(第1018回)
卓話担当:植村律保君
9月17日(土)
〇秋の会員家族親睦旅行
『劇団四季”キャッツ”観劇』
12時30分現地集合
9月21日(水)例会(第1019回)
卓話担当:下村幸真君
〇2022~2023年度 第3回定例理事会 例会終了後
9月27日(火)
〇第1回三河安城RCゴルフコンペ 於三甲ゴルフクラブ京和コース
9月28日(水)例会休会
定款第7条第1節による