第1006回 例会 2022年6月8日(水)
更新日:2022/06/08
第1006回 例会
ビジターならびに、ゲスト:(株)北見式賃金研究所 所長 北見昌朗様
本日の卓話担当:川合誠治君
1.点鐘
2.ロータリーソング斉唱(第2週)
3.安藤 毅会長 挨拶
皆さん、こんにちは。
本日のゲストの紹介をさせていただきます。
本日の卓話の講師は、株式会社北見式賃金研究所所長北見昌朗様でいらっしゃいます。
担当は会員の川合誠治さんです。よろしくお願いします。
6月2週目の例会になりました。
本日の卓話のお話をさせていただきたいと思います。
テーマは「小説やらまいか 豊田佐吉傳」ということです。
豊田佐吉といえば自動織機を発明し、トヨタという企業に大きな影響を与えた人物であると記憶しております。
本日の小説「やらまいか」と豊田佐吉さんがどう繋がるのか、疑問に思っていました。
講師の方にお話を伺い、自分がした推測の答え合わせの意味も含めて楽しく拝聴させていただこうと思います。
本日はは雑誌紹介があります。
色々な行事が本年度最後ということになり、終わりというものを少しずつ実感しております。
昨日は、プロボクシングのバンタム級のタイトルマッチがありました。
結果は井上尚弥選手の2回TKO勝ち。
別格の強さを証明した試合だったなと思います。
有料の配信放送であり、リアルタイムで視聴できなかったことが残念な思いとして残っています。
井上尚弥選手は階級を上げてもしばらくは勝ち続けるのではないかなぁと思っています。
最近は給付金詐欺の摘発のニュースをよく見ます。
聞いてみると、自分が思っていたグループと違うグループのニュースも流れています。
先程、インドネシアに逃亡していた詐欺師が逮捕されたというニュースが流れていました。まだまだ、雨後の筍のようにこのようなニュースは出てくると思っています。
コロナの状況ですが、愛知県も減少気味で、週の数字を下回り続けているという状況です。
最近は、エアコンの品不足や真夏の電力不足が予想されています。
関東地方は梅雨入りをしました。
この地区も程なく梅雨入りをするでしょう。
何かと暗い話題が多く、明るく楽しい話題が欲しいなぁという気持ちになります。
ロータリークラブの存在や活動が、少しでも皆様の楽しみになればいいなと願っております。
本日を含めて、例会は残り3回となりました。
無事、消化進行できることを祈念して本日の挨拶とさせていただきます。
どうもありがとうございました。
4.食事 (会長)
5.植村真一幹事 報告
(1)本日18時より 定例理事会および理事委員長会議をすず岡にて行います。ご登録いただいた方々、よろしくお願い致します。
(2) 次週6月15日(水)の例会は、昼間の例会を変更し18時より“会員家族親睦&第1000回記念例会ディナーショー”を行います。ご出席よろしくお願い致します。
(3)他クラブの例会変更を事務局にご確認の上、メールキャップをお願い致します。
7.本日の例会
卓話 :「小説やらまいか 豊田佐吉傳」
卓話者:(株)北見式賃金研究所 北見昌朗所長
卓話担当:川合誠治君
◯川合誠治君より紹介
今日の卓話担当の川合です。
北見賃金研究所の北見昌朗先生に来ていただきました。
先生は中部経済新聞の記者を12年間やった後、今の仕事に就いたということで、その間、沢山の本を出版されております。
特に歴史に学ぶ経営コンサルタントということで、たとえば武田家滅亡に学ぶ事業承継あるいは織田信長の経営塾、豊臣秀吉の経営塾、それから愛知千年企業、今日受付に置いてあったの大正編ですけれども、江戸時代編、明治時代編と3巻あります。
今昭和時代編を執筆中のようです。
大正編の中の68ページに当社のメトロ電気も載っております。
戦時中、軍事産業的なことをやっていたようで、載せていただきました。
その他中小企業をターゲットとして様々な経営に関する新人管理、書式作り、あるいは人材関連、就業規則などについて書かれています。
当社の顧問社労士でもありますので、そんな関係で今日来ていただきました。それではよろしくお願いします。
皆さん、こんにちは。
私の本業は給料の改定案を作るという、給料コンサルタントという仕事を名古屋で27年させていただいております。
私が好きなのはもちろん本業の給料の方も楽しいんですが、歴史が好きですね。
地元の色々な偉人がいるじゃないですか。
例えば織田信長とか徳川家康とか色々な方いるんですが、意外に知られていないのは誰だろうと考えてみるとですね、私は豊田佐吉翁ではないかと思うのです。
そこで豊田佐吉翁をどうか身近な存在にしてほしいなということで、「小説やらまいか 豊田佐吉傳」という本を書きました。
私の本は上下二巻あります。
「小説やらまいか 豊田佐吉傳」です。
「やらまいか」というのは名古屋弁でいうところのやろまいです。
前編は『偉人に母あり』。
母親はゑいという人ですけれど、彼女がいかに息子を励ましたかということを知ってほしいなということで前編をまとめました。
後編は、G型織機、例の戦争時代の発明品、それを今度支えたのは妻の浅子です。
この2人の大きな影響があって佐吉翁の人生があるということです。
それで父親は伊吉といいます。
佐吉翁の考え方は、非常に父親と母親の影響を受けています。
父親の教え、二宮尊徳翁の教えでもありますけれども
「勤労とは自分の持つ徳を生かして働き、自他を豊かにすることである。」
このような尊徳翁の教えを、掛川まで行って学んでいたのが父親です。
そして母親はね、江戸時代生まれの人です。
この人はいろいろな形で、息子を励ましました。
上巻の表紙の絵はどんな場面かというと、佐吉が小さい頃に織機を直して、母親が嬉しくなって褒めるている場面です。
「佐吉っちゃあ。お前はすげい才能がある、こんなものを作るのは特別な才能に違いない。おとっちゃが体育の名人だから、お前もその血が流れているんよ。わしは嬉しい、ありがとう。お前は本当にええ子だ。」という感じです。
発明に没頭して、村で借金ばっかりしていた若い頃もありまして、必ずしも彼の人生は若いころ順調ではなかったのですが、その中で息子を認めて励まし続けるというこの人はすごく大きな心の支えになりました。
佐吉翁が28歳の時、ある大きな出会いがあるました。
石川藤八さんという方との出会いです。
この人は当時の知多乙川村の人で、佐吉翁は彼に協力をお願いしに行ったわけです。
そこで彼の第一の発明が生まれるわけです。
明治28年これが鉄製の力織機。
何が特徴かっていうと蒸気で動くということです。
当時ですね、綿布はイギリスのプラント社っていうのがあって、そこからその機械が入ってきていたんですが、それがものすごく高いんです。
安いイギリス製つまりインド製の綿が、どんどん入ってきて日本の産地は壊滅するんですね。
その頃には日露戦争の足音も聞こえてきていました。
そんな中、日本の国家課題っていうのは軍艦株価です。
戦艦みかさね、イギリス製でお金がいるんです。
そのために輸出商品を作らないといけない。
それが綿布だったんです。
ですからこの明治28年にですね、蒸気で動く織機ができたというのは、今でいう自動車に匹敵するんです。
彼の発明が評価を受けまして、いよいよ創業しますということになりました。
明治30年豊田商店創業です。
これがトヨタさんのスタートです。
あれは大正元年ですからもう50過ぎた話です。
30歳の青雲の志を持った、本当の新創業です。
その時、運命の人と出会ったんです。
浅子さんです。
この人が基礎を作るわけです。
佐吉翁は、研究研究ばかりの人だからそろばんとか帳面っていうのは無頓着な方なんです。
ですから、浅子さんは右腕となって盛り立てていくわけです。
商店みたいなものから始まったんですけれども、豊田商店の次に豊田商会になるんですけど、いよいよですね織機の量産をするということで、下平町に工場を作りました。
この頃には大変な評価を受け、激励の嵐です。
渋沢栄一公から佐吉翁はですね、「豊田くん、国を作る発明だ」という激励を受けるんですね。
ところが、発明もそんなにすんなりいってないんですね。
日露戦争、日本海海戦が行われたのが5月でした。
この頃あるテストがあるんですね、英国プラット製の織機と豊田の織機、どちらが優秀かというテストをカネボウさんがやっていたんですね。
結果は、完敗でした。
はるかにイギリス製のが勝っている。
その知らせを受けて、佐吉翁は神戸にあるカネボウの工場まで駆けつけて、「わしの建前はこれからだ。」そういう気合をもって話して、名古屋まで帰ってくるんですね。
佐吉翁という人は発明ばっかりにお金を投じて、経営の方はなかなかうまくいかないんですよ。
ということで明治40年ごろ経営のピンチを迎えるわけです。
にっちもさっちもいかなくなりまして、借金ばかり。
こんなどうしようもない時にある話が来ました。
豊田商会が背負っているその借金を、あなたの発明をすべて差し出せば、あなたの借金をすべて背負ってあげるという再建案が銀行を通じてくるわけですよ。
これは明治40年、8月夏の暑い時期です。
佐吉は涼しげな麻単衣の涼しげな着物を着てぶらりと街に出て、あてもなく名古屋の市街地をぐるぐる回ります。
ふと気が付いてみると、堀川だった。
佐吉はそこから港を見た。
船が通り過ぎてなくなり、波もなくなると、自分の姿が映っている。
佐吉はじっと見つめていた。
堀川の水は綺麗で、透き通っていた。
ウナギとかいろいろな魚が見飽きないものである。
その時佐吉翁はゆっくりとため息を吐いた、「あぁぁ、それにしても腹が立つ、俺に特許を差し出せだと?よく言ったもんだ。俺が人生かけてやってきた発明を差し出せるわけがないだろ?冗談じゃねえ!そんなこと話にならん。じゃあどうするっていうんだよ。倒産しかないのか、いっそここで身投げして死のうか。特許を差し出すか、あるいは身投げするか。」このような深い苦悩に悩まされているのです。
当時もちろん子供の喜一郎さんもいますし、従業員もいるわけですから結果として死ぬわけにはいかない。
ということで腹をくくるわけです。
それが明治40年に設立の会社です、豊田式織機株式会社です。
豊田式織機という名前ですけれども佐吉翁は1円も出資しておりません。
佐吉翁は名前だけのオーナーということです。
豊田佐吉は特許をすべてこの会社に譲渡する。
そして社員はすべて肩代わりということで、軍門に下るわけです。
ところがです、案の定といいますかそこから3年たった明治43年4月5日、緊急の役員会が急遽開かれまして、佐吉翁が行ってみますと何か妙な空気なんです。
なんか知らんけど変な空気。
それで社長がこう切り出すわけです。
「なんで会社はこないに赤字や。垂れ流しとるんか。こんなままではもううちの会社潰れてまうやないか。なんかはよう手を打たんとちゃいますか。業績が上がらんのは社員の気が発明とか試験とかばっかにいっとるせいや。それですまんが、豊田常務、おやめいただきたいんだ。」
「はあ?おれにやめろだと?諸君らは会社を作るときに、営業は我々に任せろ、君は発明に邁進してくれればそれでいいといったじゃないか!この発明は国家事業だとあなたは応援するといったじゃないか!しかも、なんの予告もなくやめろとは何事だ!」
と言ってまさに解任されていたわけです。
佐吉翁も言ってみれば解任ということですけれどもプライドの高い人ですから、自分で即辞表を出しました。
言ってみれば、卵を産み終わったニワトリのようなものでした。
特許なしの佐吉翁を世間は冷たい目で見ました。
そして、三井物産の児玉一蔵さん、この人がキーパーソンなんですけれども、この人がアメリカに視察に行っていただくんでアメリカの織機を見学されたらどうですか?ということで救いの手を差し伸べられました。
そして1年以上アメリカやイギリスなどを回ってくるんです。
もう二度と日本には帰ってこないという気持ちで出ていった彼ですけれども、米国の織機よりも英国の織機よりも、実は自分の織機の方が優れていることが分かったんです。
それでもう過去は忘れて、50歳以上になりますから、当時ではもう晩年ということなんです。
そこで余生を国のために捧げようということで帰国を決意するわけです。
ほんの数人の志ある方々がそれを支えました。
そして出来上がったのがこの今の栄生工場です。
ですから豊田さんが自立経営の始まりといいまして、自力経営の始まりということでいわれているんですけれども、もう1つ私が加えるとしたら創業の地、宝町これも考えてくれると良いなと思います。
そして、G型自動織機という完全無欠なものが出来上がるわけです。
これで今の豊田自動織機製作所の設立に至るわけです。
佐吉翁の色々な名言がございますが、恐らく皆さんが1番良く知っているのは、
「障子を開けてみろ、外は広いぞ」
これ、どこでいったかご存じでしょうか?
この言葉ご存じですよね?
有名ですよね。
この言葉言ったのは実は錦三丁目なんです。
そこに料亭やよいという料亭で話し合われました。
栄生で成功したもんですから今度は上海に出ていこうとするんですね。
ところが上海進出に関してみんな反対しました。
基盤がようやくできてきたのに何でそんなリスキーなことをやるんだといって、賛成したのは佐吉翁を支えた児玉一蔵、石川泰三の2人だけでした。
とにかく上海進出を全員が反対しているときに、冬の寒い時にぱーんと焼酎開けて、先程の名言に繋がるわけです。
この料亭やよいはですね、その後も昭和12年トヨタ自動車設立に時も自動車をやるかやらないかという話し合いをしていた時に、上海の総責任者に言ったのは
「大大将の夢をかなえるのに何の遠慮がいりましょうやお金なら私がいくらでも用意します。」
それで自動車進出が決定するわけです。
今日持ってきた本はロータリークラブに贈呈しますので、これからの社会奉仕に充ててくださればと思っております。
以上でございます。
ありがとうございます。