第1071回 例会 2023年12月13日(水)
更新日:2023/12/13
年次総会
議長:平野勝則会長
提案者 平野勝則会長、平野勝則会長エレクト
挨拶:平野勝則会長エレクト
司会進行:荒木芳紀幹事
〇定員数確認
会員数63名、出席者51名、委任状3名、欠席9名
上記により総会は成立
〇2024~2025年度理事(案) (弥政晋輔会長エレクト)
拍手多数にて本件審議可決(提案書の(案)の抹消)
〇弥政晋輔次年度会長挨拶
私は例会至上主義でいきたいと思っております。
毎週水曜日が待ち遠しいと思ってもらえるような例会運営を心がけるつもりです。
平野会長のように歌って踊れる会長ではありませんが、杉浦幹事と力を合わせて精一杯頑張っていきたいと思いますので、皆様のお力添えをよろしくお願いいたします。
第1071回 例会
ビジター:おみえになりません
ゲスト:傳兵衛クラブ刈谷 会長 前刈谷市副市長 川口孝嗣様
本日の卓話担当:天野竹行君
1.点鐘
3.平野勝則会長 挨拶
皆さん、こんにちは。
先日のクリスマス家族例会では、親睦委員会の皆様並びに会場委員会の皆様、大変ご苦労さまでございました。
楽しい企画と設営で、皆さん楽しんでいただけたのではないかと思います。
特に今回の違いのわかるコーナーというコーナーをやっていただきまして、お子様から女性の方から楽しめる企画でございました。
例会の翌日に安城市シティマラソンが開催されました。
朝日町通りが折り返しになり、たくさんの方が走っておられまして、折り返しのところまでの時間期限がありましてそれをここに達しないとそこで打ち切りでバスに乗ることになります。
あと30秒というその時に、颯爽と富田さんがタイムをクリアして、見事に走っておられました。
素晴らしいことだと思いますので、皆さんもまた来年も開催されますので、ぜひ私どもはですね、チャレンジしていただいて皆さん見習っていただきたいと思います。
4.食事 (会長)
5.荒木芳紀幹事 報告
(1)本日12時より、“25周年実行委員会”を開催致しました。また例会終了戦略委員会”を行います。於~例会場
(2)次週12時より定例理事会を、例会終了後細則改訂委員会を行います。於例会場
(3)2月3日(土)歌舞伎の観劇のご出欠は、12月15日(金)までにご返信下さい。
(4)先日ご協力いただいた秋田災害の義援金をお送りしました。その件で秋田のある2540地区のガバナーより御礼のメールをいただきましたのでご報告させていただきます。
今日のテーマは神谷傳兵衛と三河の発展ということで、ピンポイントでお話をさせていただきたいと思います。
【神谷傳兵衛とは】
明治大正期近代日本の黎明期において、渋沢栄一や五代友厚が称されていましたが、ここに神谷傳兵衛が出てきてもいいのはないかと思っております。
神谷傳兵衛は念ながら66歳で早世しています。
明治期以降表舞台には立てない中、商売で身を立てていきます。
三河屋酒店から、現在は東京浅草雷門のすぐそばに浅草1丁目1番地1号に神谷バーを建てました。
将来を見据え野原の中で関東大震災にも耐えまして、現在も神谷バーはそのまま営業をしてみえます。
電気ブランと合わせてワインの醸造をしたいという将来の夢を持っており、茨城県牛久市にワインの醸造場を作りました。
現在も宿舎等がそのまま残っており、日本遺産近代産業遺産にも指定をされておりまして、大変立派な建物です。
NHKの朝ドラの「らんまん」でも、この宿舎等が舞台になっております。
さて、神谷傳兵衛の伝記本が大正10年1月1日に出ております。
私共はこれを伝承し、拡散するために、これを教科書にして勉強させていただきます。
その本の100年の記念事業で、展覧会をしよう、そして記念講演会をやろうということになり、の漫画本を作って刈谷市の全小中学校、公共施設に味岡さんにより寄贈いただきました。
【刈谷の成り立ち】
1533年水野家が三河の地に城を作ったというところから始まりました。
刈谷にお城ができたことによって、城下町が形成されて、商売も成り立っていきました。
9家22人の藩主達が刈谷の町作りをしながら、発展を進め、文化もここで育まれてきました。
そして、1863年その刈谷の中からその幕府を倒そうという動きが起こりました。
このまま幕府については、いずれ外国からの勢いに負けてしまうというような思いもあり、京都から官軍が幕府江戸に向けて上がってくるわけです。
その時に江戸幕府からも、官軍からも刈谷はどちらにつくんだという問い合わせが何度かきます。
桑名まで来た時に、これは駄目だと幕府を見限り結論を出しました。
実はこの時刈谷には3人の家老がいました。
その家老達はどちらかというと保守派幕府寄りの家老でしたので、そのどちらに結論を出すかという、その苛立ちがありました。
仮版は早く結論を出さなくちゃいけない家臣達は、あの3人の家老がいたのでは潰されてしまうということで、保守派の家老達を殺害してしまう計画を立てました。
悲しい事件となってしまいましたが、幕末の大事件だったということが、彼らの歴史の中にもありその後、明治維新を迎えるわけです。
その時の城主が若く病弱だったため、刈谷にはリーダーがいなくなってしまいました。
そこで刈谷出身ではないのですが、大野家が刈谷に戻されました。
城にいる士族達をを食べさせていかなてはいけないので、様々な策を練る中で、明治維新の士族の籍を返上してしまいます。
籍を返上することでお金が入ってくる時代でした。
そのお金で働く場、今の生協みたいなシステムの場所を作りました。
そのときに中心になっていたのが、レンガ産業煉瓦製造業のれんがで、鉄道省に少しずつ納品をしておりました。
【三河鉄道】
その後紆余曲折があり、様々なピンチがありました。
そのときに残った人がもうこのピンチを救うのは、神谷傳兵衛しかないだろうとなったのです。
神谷傳兵衛は当然本業とは違うことなのですが、三河鉄道の主任もされました。
その後工場を作れということで、レンガ工場ができました。
このレンガ工場の位置は、現在刈谷駅で名鉄と東海道本線がクロスした場所になります。
各方面を駆け回り、大変体に負担をかけて株主を集めながら、神谷傳兵衛は資金集めに奔走し、66歳で亡くなられてしまいました。
【トヨタとの繋がり】。
工場ができたことによって、そして、三河鉄道と東海道本線クロスしたところで、豊田佐吉さんが登場します。
田崎さんはトヨタ紡織の試験工場を用地を求めておりましたが、地主さんの間で不買運動が起こりました。
そこでトヨタは蒲郡へ用地を持つ定め、用地の調査に向かう時に、たまたま刈谷駅で列車待ちをしていました。
そこでたまたま刈谷の第8運送の平岩主任が声をかけて、工場をやるのなら刈谷のが交通の便もいいし、名古屋にも近いし管理監督もしやすいし、大きな工場もできおり、用地買収もしやすいというような話をして、平岩主任はすぐに同志会に話を持っていきました。
その後誘致がすぐにきまりました。
紡織工場の中に食器工場を作ったり、徐々に土地を借り上げたりと、トヨタも代替わりをしながら事業は拡大していきました。
その中で別の場所に刈谷の向上従業員が流れてしまうことが起き、刈谷はトヨタに「これでは話が違う」と訴えます。
そこで自動車関連の工場は全て仮屋に作るという取り決めがなされたそうです。
こういったお話はまだまだたくさんあるのですが、今日はここまでとさせていただきますが、実は私が勉強した中ではこの歴史の流れは行政が主導はないのです。
やはり地元の産業の方たちが動いたことによって街が出来てきたということでこういう話を見比べ皆さんに伝えながら、住民の力を高めていっていただきたいと思います。
ありがとうございました。