第661回 例会 2014年1月15日(水)
更新日:2014/01/16
第661回 例会
ゲスト :
ビジター :
司 会 : 金子 豊久君
1.点鐘
2.ロータリーソング斉唱(第3週)
3.寺部会長 挨拶
みなさま こんにちは。本日のゲスト、オブザーバーはいらっしゃいません。さて、朗報でございます。昨日 国際ロータリー日本事務局から安城市私立幼稚園ロータリー地域社会共同隊(RCC)の認証状が届きました。ご苦労いただいた大見和志副員長、会員の皆様のご協力を心から感謝し、お礼申しあげます。ありがとうございました。
来週は15周年記念式典でございます。安城市私立幼稚園へRCCの認証状の伝達及び目録の贈呈を予定します。みなさまとご一緒に15周年をお祝いしたいと思います。よろしくお願いいたします。お食事をどうぞ
5、記念日祝
1月の会員誕生日祝
待田 清君
植村 律保君
畔柳 弘文君
杉浦 秀郎君
1月の会員入会記念日祝
伊吹 治郎君
稲垣 靖君
柵木 政美君
森田 勝己君
矢田 良一君
待田 和宏君
寺部 保美君
1月の結婚記念日祝
山口 恭正君、公子さんご夫妻
田村 脩君、昭子さんご夫妻
山本 彰秀君、貴子さんご夫妻
1月の配偶者誕生日祝
堀尾 郁子さん(豊君)
中村 元子さん(正君)
西尾 淑子さん(四郎君)
山本 貴子さん(彰秀君)
古居 眞瑞さん(一雄君)
水谷 美佐さん(存君)
稲垣 美子さん(善朗君)
森田 敏子さん(勝己君)
荒木 千鶴さん(芳紀君)
富田 恵子さん(清治君)
6.幹事報告(山本幹事)
・次週22日の例会は、15周年記念例会です。12:30~14:00と30分延長します。お酒の準備は、致しません。
・2/5例会終了後、クラブアッセンブリーを行います。今回、前半期の各委員会報告 と今後の抱負を発表して下さい。
・他クラブの例会変更をご参照の上、メーキャップをお願い致します。
7.委員会報告
(1)出席委員会 出席報告 (小野副委員長)
会員数63名 出席義務者数50名/うち出席者数57名 出席率 90.48%
(2)15周年実行委員 竹内委員長
(3)雑誌委員会 ロータリーの友1月号紹介 (矢田委員長)
(4)ニコボックス 12件 39000円 (天野竹行君)
8.本日の例会
“年男 年女放談”
スピーカー:寺部保美君、平野勝則君
寺部保美君---私の生い立ち
最初に自分で驚いております。今年は年女。 自称 55歳でとおしてまいりましたが、どうも計算があいません。世の中には計算の合わないことが沢山ありますので、「まあ いいか。」と自分で納得させております。本日は私のこれまでの人生の歩みをかいつまんでお話しいたします。生まれたのが安城市、昭和17年8月15日。終戦記念日でございます。当時、学校法人安城学園は教職課程の免許を取得できるようにカリキュラムを計画しておりました。そのためには、東京女子高等師範学校または奈良女子高等師範学校卒業の教員を必要としておりました。しかし、安城という田舎の学校には来てくれそうもないということで、寺部だい先生が知恵を絞って考えたのが、自分の息子のお嫁さんにということでした。ちょうど一宮で教職についていた私の母(東京女子高等師範学校卒)を見つけ出し父と結婚させたのです。母はだい先生の期待に応え、教員の無試験免許を成功させました。父は母と結婚した直後、蒙古に渡りました。日本政府からの派遣です。蒙古政府で参事官をしたそうです。父が蒙古に船で渡るときのドラの音がとても寂しく悲しく感じたそうです。そして蒙古に到着した父からは長い長いラブレターが届いたそうです。(母から聞いた話です)約一年後私が誕生しました。父は男の名前を用意して母に託していましたが、女の子の名前は一つもなく、私の名づけ親は父の妹にあたる寺部二三子おばさんでした。私が一歳になったとき、私と母は父のいる蒙古に渡りました。蒙古には約三年間いました。終戦を迎え、私たち親子は懐かしい日本・安城に戻りました。両親は安城学園でそれぞれ教職につきました。しかし、時もとき、父が公職追放にあい、私たち家族は安城を離れ、大阪枚方市へ移り住みました。このとき、だい先生も公職追放にあいました。私の弟妹は女3人と男1人の4人です。
正確にいいますと、蒙古にいたとき私の2歳下に男の子が誕生しました。しかし、弟
啓明は終戦の年に1歳で病死しました。帰国して安城にいたとき、待ちにまった男の子の誕生です。この男の子が安城学園理事長の寺部 曉です。彼が生まれたとき、私は6歳、夜中に父に「生まれたぞ、お湯を沸かしてくれ」とたたき起こされました。そして朝、母の隣りで寝ている赤い顔のおせじでも可愛いいとは言えない男の子がすやすやと寝ていました。私は初めて赤ちゃんを抱っこしました。明け方に生まれたので 曉と名づけられました。安城での思い出を少し。田んぼがあり田植えを手伝いました。裸足で田植えです。足に何か黒いものがくっついていました。ヒルでした。後でとてもかゆくなりました。出来上がったお米を脱穀機で脱穀しました。菜種を植えており、菜種をリヤカーに積んで工場へ持って行き、菜種油にしてもらいました。夏は畑から勝手にスイカをとって小屋の裏で食べていたら、父の大きな雷がおち、すごく叱られました。中部小学校に2年生の1学期まで通いました。小学校時代には何度か、頭にDDTをかけられ、真っ白になり、臭くてとても嫌でした。小学校の2年生の2学期に大阪の枚方市に移りました。枚方市の家は母が設計した平屋の広い家でした。今でもその間取りを覚えています。この家には“父の部屋”がありました。あるとき、私はこの父の部屋に呼ばれ、座敷机の向こうに父、こちらに私が座り、こっぴどく叱られました。それは通知表です。オール3の成績を「なんだ、この成績は」と怒られたのです。私は子ども心に「3って普通にできているのに、どうして怒られるのかな」と、とても疑問に思いました。枚方市で父は友達の経営する家具の会社に勤めました。しかし、この会社が倒産し、友達の社長は姿をくらまし、連帯保証人になっていた父は、家も何もかも無くしてしまい、私たち家族は大阪市住吉区粉浜町の長屋住まいとなりました。何も事情のわからない子どもの私は狭い長屋でも2階建てでとても喜んでいました。家の前の道には前の家で使っていた応接セットが狭い家には入りきらず、外に置かれていました。父はこのときから保険会社に勤めました。ときどき駅まで父を迎えに行き、家までの道すがら、「お父さんは会社で偉いんだぞ」と父は私に話しました。しかし、こどもの私でも「偉いのに、なんで狭い長屋に住んでいるのかな」と心のなかで疑問に思っていました。粉浜町での生活は厳しかったようです。母と一緒に買い物に出かけたとき、普通の家に入り、帰りには母の手にお米がありました。闇米を買っていたのです。
あるときには、風呂敷包みを持ってどこかへ行きました。帰りには風呂敷包みはありませんでした。後でわかりました。質やへ行ったのです。さて、私は大学生になりました。大学ではワンダーボーゲル部に所属しました。と同時に大阪YMCAの青少年活動に携わり、高校生クラブのボランティアリーダーを毎週1回、夏には小学生相手の六甲山でのキャンプリーダーを務めました。その他、駅前での募金運動、僻地の小学校への訪問、サントリー山崎工場近くにある老人施設の階段作り―土方仕事などをしました。
メンバーであった高校生にとって、このYMCA時代は、その後の彼らの人生の道標となっていることをあとで知り、とてもうれしく、また責任の重大さを改めて感じた次第です。 この高校生とは今も交流があります。彼らは今68歳となり、それぞれ社会で活躍しています。香港に3年間、在住する機会に恵まれました。子どもたちは日本人学校へ通学しました。男の子はリトルリーグのメンバーとなり土曜日は練習、日曜日は試合です。私は香港在住のときに自動車の運転免許を取得し、野球の送り迎えに大活躍しました。ちょうど、帰国の年、長男がリトルリーグの世界大会のメンバーに選ばれました。子どもにとってはとても素敵な良い思い出になりました。私は美味しい中華料理をいただく機会に恵まれました。お昼は一人で飲茶に出かけました。地元の市にもでかけ、生きた海老も食卓のご馳走となりました。市でブロッコリーを買ってゆでると虫が浮いてきました。これは農薬を使っていない証拠です。私は香港ではテニスを楽しんでいました。さて、ここから安城学園での歴史となります。学校法人安城学園法人本部の理事長の秘書からスタートし、法人事務局長、大学豊田学舎の事務局長、理事長補佐といった肩書きがついてきました。父である理事長の秘書を務めたことにより、学園の組織・人事の要となる部分を勉強することができました。亡くなった父に感謝します。平成18年、もしかしたら私の人生での最後の挑戦になるかも知れないと思っていますが、大学の管理運営に関係する修士課程の通信教育を受けました。桜美林大学大学院大学アドミニストレーション研究科 通信課程です。日常の勤めの中での学業はとても大変でした。ダンボール1箱の教科書が送られ、学期に2回レポートを作成して大学へ送付します。毎日6時以降は勉学の時間にあてました。年に2回夏休みと冬休みの期間、4日から5日間スクーリングに出かけました。最後の修士論文作成時にはお正月返上でひたすら、論文作成に精を出し、1月中旬の締め切りに間に合わせ、なんとかクリアーすることができました。機会がありましたら、又何かに挑戦できればと思っています。平成19年、当時の会長さんから三河安城RCのお誘いを受け、入会し、今日に至っております。
三河安城RCのみなさまとの素敵な出会いを大変うれしく思います。3人の子どもを育てるなかで、子どもから大切なことを学びました。多くの人との出会いのなかでも、多くの大切なことを学びました。健康で、仕事に従事できることにこの上ない幸せを感じます。私のつたない話をお聞きくださいましてありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。
”年男放談 平野勝則君"
今年還暦を迎えます。本日は赤のパンツ、ネクタイで決めてみました。当クラブの平均年齢は、まさに60歳ということで、私なりの解釈で、クラブ内で成人式を迎えるような気分です。
1954年にヒットしたもの、出来事を紹介します。
最近は、週2回のジム通いで体を鍛えています。趣味の一つの映画鑑賞で、公開中の永遠のゼロに感激しました。主題歌は大好きな桑田佳祐が歌う 蛍 の歌詞を配らせていただきます。