第1116回 例会 2025年1月29日(水)
更新日:2025/01/29
ビジターならびに、ゲスト:おみえになりません
本日の卓話担当:寺部保美さん
3.弥政晋輔会長 挨拶
皆さん、こんにちは。
本日は私の高校時代の「竹取物語」の話をしようと思います。
私の通った高校は1学年10クラス101組から109組が普通科で、110組が美術科でした。
1クラス45人で大体男性が35.6人、女性が9名程で構成されていました。
反対にですね美術科は男女比が逆でした。
そんな高校で10月に体育祭があるのですが、これも伝統的に体育祭になるとですね、観覧席とその後ろに畳4畳ぐらいのベニヤを繋げたバックボードなどの製作と設営をすることになります。
かなり大掛かりなものでした。
体育祭が残り1週間程に迫った頃、予め用意しておいた設営用の竹が無いことに気づきました。
学年縦割りの設営だったのですが、他の縦割りが持って行ってしまったようでした。
しかし竹に名前を書いていたわけでもありませんから、とにかく竹を取りに行こうということで、小雨の降る中男子生徒がジャージに着替えて取りに行きました。
行き来では長い竹に苦戦しながらも交代で竹を運び、気づけば夜8時になっており、雨は上がったものの辺りは暗くなっていました。
運動場側の裏口から入ると、教室に煌々と明かりがついていることに気が付きました。
女子生徒が握り飯をいっぱい作って待っていてくれたのです。
当時は携帯などは持っていませんから、いつ男子生徒が帰ってくるかわからない中でずっと待っていてくれました。
とても感動しました。
今でも思い出す青春の1ページです。
しかし、その日の午後の授業は数学がに2個もあったのですが、どうも数学の先生が怒ってしまい、8クラスの半分いませんからいつもの倍速で授業をやってやったぞというのを聞きました。
それで翌日謝りに行って事情を話したんですね。
先生は黙って聞いていて、最後に「早く追いつくように」と言って、許してもらえました。
今でも年2回程当時のクラスメイト集まってクラス会をやりますが、心の中に深く残った思い出で必ず竹取物語の話は出ております。
以上です。
4.杉浦秀郎幹事 報告
(1)本日例会終了後、定例理事会を開催します。
(2)次週 伊吹ヱリ子さんの入会式を行います。
(3)RFF(ロータリーフードフェスティバル)への企業協賛のお願いとチケット購入のお願い
(4)他クラブの例会変更を事務局に御確認の上、メーキャップをお願い致します。
本日は、私の学園の創立者であり、私の祖母にあたります先生のお話をさせていただきます。
【敬愛するだい先生の生き方に学ぶ】
だい先生が生涯を通して実践した四大精神「真心・努力・奉仕・感謝」、この四大精神の実践からだい先生が様々な努力を重ねられ、追い求め。実現させた上、安城学園の誕生について事前思い出を紐解き、話してまいります。
安城学園の創立者である寺部だい先生は明治15年のご誕生です。
桜井村の母1人子1人の貧しい家庭で育ちます。
お母さんは毎日古着の行商に出かけます。
3歳頃の小さなだい先生は近所の子供の子守をし、お母さんの帰りを待っていました。
夕方あまり近所で美味しそうな雑炊の匂いがしてきます。
だい先生はお母さんの帰りを家でじっと待っていました。
80歳になった今でもこのときの寂しさは驚くほど教え印象となって心に刻み込まれています。
7歳のとき、突然お母さんは善光寺参りを思い出しました。
小さなだい先生を預かってくれる家もなく、お母さんと手を繋ぎ旅に出ました。
だい先生は背中ござを背負い、約2ヶ月の難行苦行の旅なりました。
善光寺参りの帰り道、疲れ果てた親子は分かれ道にだどりつきました。
日は既に山の向こうに姿を消し暗くなっていました。
人影もありません。
山には獣がたくさんいるので危険でした。
そんな時はお母さんも全く意を決したかのように目を輝かせ、何かをお祈りすると、ばっと1本の道へ踏み出しました。
するとどうでしょう、その方向に石が倒れていたのです。
道しるべでした。
薄明かりの中でお母様なんだろう何度も指先で擦りながら読んでみると、右の道と刻まれていたんです。
お母さんはまさに善光寺様がお導きと喜びの涙をたたえ、宿へと一緒に行きました。
無事我が家に帰ることが出来ました。
文字を読むことの大切さを身をもって体験したお母さんはだい先生を学校に入学させることにします。
当時4年生の小学校で義務教育ではありましたが、特に女の子学校に行かせるのは学校の先生、お医者さん、お寺の家庭くらいでした。
明治時代の女性にの教育に対する風潮もありました。
まだ不就学年齢に達していませんので断られます。
しかし、お母さんは何度も何度も頼み込み、9月から学校へ通えることになりました。
このようなお母さんの熱心さが、その後だい先生に教育を受けさせ、生涯かけての教育の仕事に繋がっていったのです。
学びの第一歩を進めることができました。
しかし、9月の途中入学ということもあり、友達もできず、友達からいじめられるという、決して楽しいとは生活ではありませんでした。
7歳のだい先生は午前中は学校午後家に帰ってからは日の暮れるまで近くのうちの子守をし、その家で夕食を呼ばれ、お風呂をもらって8時頃家に帰り、その日のおさらいをする生活を送っておられました。
7歳の子供にとって、それはつらい毎日であったと思います。
このような生活が小学校3年生頃まで続きます。
11歳になっただい先生は、勉強して立派な人になることだ。
それがお母さんへの恩返しだと考えました。
このときだい先生が考えたのは小学校の先生でした。
しかし、家の事情でまともに通うことができなかった大先生は夜学塾に通うことになり、勉学情熱を燃やしました。
毎日明るい間御守りをし夜は塾に通いました。
塾では毎日2時間勉強しました。
そうして7年間通いました。
14歳の時お母さんから、学問も大切だが女の子には終わりがもっと大切だよ。
手に職をつけておけば、万が一の場合も子供の養育いいぐらいは自分の力で稼ぐことができるよと言われ、農業や工作などを副業として家計を助けました。
ここまでのだい先生の人生を見ても、普通の子供の幼少時代とは違い、苦労の連続苦難の人生であったことがわかります。
さて、だい先生は細胞専門の先生を目指して受験勉強です。
東京家政大学に入学しましたが、ここで基礎知識の無さを痛感します。
そこで夜には教員養成所に通いましたが、学費と生活費を自分で稼がねばならなりませんでした。
ある時は男装して人力車の車夫をするために何度も何度も頼み込み、2カ月半続けました。
その時偶然お母さんを知っている桜井村出身の方に出会います。
その方の好意で男爵の家に下宿することになり、だい先生は大学を卒業しました。
卒業後は教員資格を取り、滋賀県にある石部実業補習女学校へ赴任。教員としての第一歩を歩みました。
そして2年後、友達の紹介で海軍の清水三蔵氏と結婚します。
しかし夫は突然、海軍を辞めてしまいます。
夫婦で桜井村に戻りました。
だい先生は女子に必要な裁縫等活動を主体とした一般教養学科の女学校が欲しいと考えていました。
ちょうど小学校の恩師から誘われ、だい先生の方へ引き継いで計画を実行させていきました。
これが安城裁縫女学校の始まりとなります。
明治45年2月、学校の認可の知らせを受けました。
女子の職業教育に目をして、1人の生徒に受験をすすめ、彼女は見事10月の試験に合格しました。
すると、翌年7人8人と希望し、授業が終わった夜は特別に受験連携を特訓しました。
こうしてその年の10月には7割が合格し、近所の小学校先生として就職していきました。
大正6年には安城女子職業学校に校名変更しました。
しかし、大正7年安城町が学費無料の補習女学校をつくり、3年間厳しい学校経営を強いられます。
これを打破するため、一段上の甲種中等程度実業学校への昇格を決意。
そこで校舎、講堂兼用務室を建築しました。
学校の特徴は精神修行と礼儀作法第1として学校生活を充実させることに移動しました。
大正9年四半期の入学生が急増したことにより、高等師範科を設置します。
大正13年『主婦の友』にだい先生の半生が紹介されると、これが宣伝となり全国から入学者が集まりました。
その後、認可を求めるも必要な資金や条件とされる教員の確保など非常に大変な時期を迎えつつも、だい先生は女子の教育のため尽力なさいました。
終戦後には夫の急逝、教職追放による謹慎生活と幾多の苦難が降りかかりました。
しかし、これらを乗り越え、そして新しい教育制度の改革を受け、安城女子専門学校を安城学園女子短期大学(現愛知学泉短期大学)に、安城女子職業学校を安城学園女子高等学校(現安城学園高等学校)として発足させました。
そして次第に女子教育の総合学園として広く認められるようになりました。
昭和33年(1958年)、藍綬褒章拝受。
昭和37年(1962年)、安城市の名誉市民の称号を拝受。
昭和37年(1962年)、地元の強い要請を受け、男子教育にも踏み出し、岡崎城西高等学校を開設しました。
昭和41年(1966年)4月、悲願であった安城学園大学(現愛知学泉大学)を開設しました
。しかし健康状態を崩し、その年の5月18日に83歳で生涯の幕を閉じました。
だい先生にとっては志半ばの幕しめでありましたが、だい先生の生き様は、多くの卒業生の心の礎として今日なお脈々と受け継がれています。
だい先生の教育に対する確固たる信念と基盤は、その人生での様々な体験を通して培われ、安城学園の見学の選手ご努力奉仕感謝の4大精神が繁盛学園の教育の太い柱となっております。
だい先生の自伝である「おもいでぐさ」には、先生のいつもいつも謙虚で真摯な対応が書かれています。
だい先生の生きざまそのものが銀河の精神であり、学園の歴史でもあります
時代が変わろうと学校法人安城学園建学の精神を基盤として独自の教育を確実に継承し、展開してきました。
その時代に必要な教育を打ち出し、安城学園を発展してきました。
今日では多くの優秀な人材を呼び輩出し、社会に貢献してきました。
多くの卒業生が活躍しています。
創立者は常にこの「真心・努力・奉仕・感謝」の四大精神の実践により、初めて自分の持つ能力の可能性の限界までその能力を発揮できると確信し、生涯を通して自ら実践し、そして夢を実現することができました。
男尊女卑の明治の時代に教育とは、男であろうと女であろうと人間として平等に受けるべきものである。
そのために女性の地位向上に不屈の精神を持って挑みました。
さて、だい先生から私のメッセージは、苦しい時つらい時は先生のことを思い出し、エネルギーをもらいます。
一歩一歩、前に進んでいきます。
だい先生の在りし日のお姿をご覧頂こうと思います。
80歳頃の先生です。
姿勢が良く、所作が美しいだい先生でございます。
礼儀作法というのは貧しいからできないではなくて、貧しい豊か関係なく、母親のいろいろな教育で子供にちゃんと教えることがとても大切だなと思いました。
そしてだい先生から一番大切なこととして、私が受け止めたのは幸せとは心の豊かさ貧しくても心温かく豊かに過ごしていることが人間として大切なことである。
だい先生は「家族は幸せかどうか」「愛あって暮らしているかどうか」「それは玄関に入ったそのときの雰囲気でわかるものですよ」と私に教えてくださいました。
その時の私はまだ小学校の3年か4年でしたので、そのことはわかりませんでした。
ただ、その後人生を歩むなかで、そういうことなんだっていうことを教えていただきました。
本日は、このような機会を与えてくださって本当にありがとうございます感謝申し上げます。