第1107回 例会 2024年10月30日(水)
更新日:2024/10/30
第1107回 例会
ビジターならびに、ゲスト:おみえになりません
本日の卓話担当:成田 徹さん
3.弥政晋輔会長 挨拶
皆さん、こんにちは。
先週の続きをお話しします。
親の財布から50円玉をくすねた弥政少年も小学校5年生ぐらいに多分なりました。
四畳半二間の市営住宅からとうとう抜け出し、借家ではありましたが、一軒家に引っ越して家が少し大きくなりました。
その時にステレオ買いました。
FM放送で「バッハの二つのヴァイオリンのためのコンチェルト」というのを聴いていたく感動しました。
僕が死ぬ時は絶対これを聴きながら死にたいなと、今でも思っている曲です。
どうしてもこの曲のLPレコードが欲しくて、親にねだりました。
そうすると、父親が「次の日曜日買いに行こう」と言ってくれて、初めて父親と2人だけで買い物に行きました。
当時の名古屋でクラシックレコードというと、伏見にある名曲堂1択でした。
タワーレコードはまだない時代です。
僕がラジオで聴いたのはロシアのヴァイオリニストである
ダヴィッド・オイストラフという人が、息子さんのイーゴリ・オイストラフと2人で録音したものでした。
それでこの2つのヴァイオリンが絡み合って旋律を弾き、弦楽合奏でバックを務めてしました。
名曲堂に入った僕は一目散にバイオリンコンチェルトのコーナーに行って探しました。
欲しかった盤はあったのですが、名曲堂の主人が「その曲だったらこれがベストだよ」と言ってヘンリク・シェリングというポーランドのヴァイオリニストがお弟子さんと録音したレコード薦めてきました。
迷いましたが、僕はどうしてもオイストラフが良いなと思って伝えたところ、とてもムッとした感じでした。
帰り道で、父親がどうしてお店のお薦めにしなかったか聞いてきたので「やっぱり親子がやっている方が気が合って良いと思う」と話しました。
父親は何も言いませんでしたけれども、数日後に母親が、「お前何言ったの?お父さん喜んでいたよ」と話してくれました。
その時の僕はなんという人たらしな子供だと、今でも思っています。
以上です。
5.杉浦秀郎幹事 報告
(1)日例会終了後、定例理事会を開催します。
(2)能登半島水害被災地への支援金のご協力をお願いいたします。
(3)11/10(日)の地区大会2日目のご案内を、出席される方々にお渡しいたしました。
(4)次週に例会は休会となります。
(5)クールビズの実施は10月までです。11月よりネクタイ、ジャケットの着用をお願いいたします。
(6)他クラブの例会変更を事務局にご確認の上、メーキャップをお願いいたします。
6.委員会報告
(1)出席委員会 出席報告 (出席委員会)
会員数 59名
出席義務者出席数 21名
本日の出席者数 46名
本日の出席率 92.0%
先々回の修正出席率 88.5%
学生時代から30代にかけて、終戦の日の前後になると必ず「朝まで生テレビ」という番組で
「先の大戦は何だったのか」
様々な人が喧々諤々やっているというのを夜見ていました。
フランスに住んだことがあるのですが、ヨーロッパの方々は自国の歴史をよく知っています。
私はというと、よくわからないままのことが多いと感じていました。
1995年に終戦50年目の8月15日の日に、わからないままではいけないと思い、靖国神社に参拝しました。
靖国神社に行ったら何かわかるかもしれないと思い、家族と一緒に行きました。
そうしましたら、街宣車や様々な人がいて正直なところ更にわからなくなってしまいました。
本日はその中でも「昭和最大の黒幕」に焦点を当ててお話させていただきます。
【玉音放送】
~録音音声~
・正式名称:「大東亜戦争終結ノ詔書」
本日は現代語訳を付けた物をお配りしました。
・作成:内閣書記官長・迫水久常
・起草:漢学者川田瑞穂
・刪修:安岡正篤
放送に際して、軍部によるクーデターへの懸念から、非常に言葉を選んだ文章となった。
また、御璽(ぎょじ)押印のために通常あるはずの空欄が足りず、無理矢理押捺したため、印影が本文にかぶさるという極めて特異な文章。
【安岡正篤という人物】
1898年大阪中央区の裕福な家庭に生まれる。
実兄は高野山 金剛峯寺 第403世座主の堀田真快。
小学校入学後に四書(論語・大学・中庸・孟子という4つの書物の総称)の「大学」から素読を始める。
中学校卒業後に高知県貫属士族で東京在住の安岡盛治の婿養子となる。
その後も突出した才能を発揮し、出版物などで話題になる。
文部省入省後半年で職を辞し、その後は社会教育研究所に出講。
関東大震災ののち同研究所の組織再編に際し、学監兼教授となり、教育部長を兼任する。昭和58年の12月13日享年85歳で死去。
この人物が先程の「大東亜戦争終結ノ詔書」に関わっていたそうなのです。
天皇陛下のお言葉に、アドバイスをされるというのはすごいことです。
中国の古典を勉強された方だけに、国民に刺さる言葉選びなどに随分配慮されたのではないかと思います。
【詔書に書かれた言葉】
安岡正篤が入れたかった「議運の存ずるところ」
実際には「自分の赴くところ」というような記載になった。
意味合いとしてよろしくない、裕仁天皇の「耐え難きを耐え、忍びがたきを忍び」という言葉を使いたいという意志を汲み取りたいという安岡正篤の主張があったが最終的には上記の言葉が使われた。
【終戦後の安岡正篤】
GHQにより、創設団体は解散、財産は没収され、更には戦犯容疑もかかったが蒋介石の説得により、逮捕されなかった。
その後も、政治家や財界人の指南役として政財界との関わりを続ける。
1981年の春の園遊会にて、昭和天皇から「安岡、終戦のときは苦労をかけたね」と言葉をかけられた。(名前の呼び方からいかに安岡正篤が昭和天皇にとって心許せる人物だったかが伺われる)
【元号・平成】
1990年の記者会見にて、竹下登元首相が示唆したことから「平成」という元号を考案したとして一般的に広く知られている。
しかし、その後それを否定する証言も出ている。