クラブ会報

第1120回 例会 2025年3月5日(水)

更新日:2025/03/05

第1120回 例会 

ビジターならびに、ゲスト:おみえになりません
本日の卓話担当:堀尾 豊さん

1.点鐘 

2.君が代斉唱、ロータリーソング斉唱(第1週) 

3.弥政晋輔会長 挨拶 

弥政晋輔会長  挨拶
弥政晋輔会長 挨拶

皆さん、こんにちは。

次第に挨拶で話すネタが尽きてまいりました。

さて、以前鴨長明の『方丈記』の話をしましたが、今日はそれから約100年の後に『徒然草』を書いた吉田兼好、鎌倉末期から南北朝にかけて生きた人で、この人も役所勤めをしていたらしいのですが、30歳ぐらいのときに出家をしています。
以前お話した、石清水八幡宮の話は52番目の話でした。
今日は243段あるうちの220番目の話をご紹介しようと思います。
私も読んで非常に感動した話です。

冒頭に、
「何事も都は美しくて、優雅だけれども、田舎は汚らしい」
と書いてあります。
田舎というのは、当時の都以外を指しています。
ところが、大阪天王寺から来た楽団が非常に響きが美しかった。
田舎のくせにと思ったその人は
「どうしてこんなに音が綺麗なんだ」
と聞きます。
すると、
「我が寺の楽器は、正確にチューニングされている。聖徳太子の時代から伝わる調律の教えを今日まで守ってきたおかげである。六時堂の前に鐘があり、その音色と完全に一致した黄鐘調の音だ。門外不出の伝統で、この一音を基準に、全ての楽器の音色をチューニングするのだ。だから響きが美しいのだ。」
と答えます。

私はそれを読んだ時に「なんと、700年前からそのようにピッチを合わせていたのか」と思って大変感動しました。
現在のオーケストラも確かに最初、チューニングが始まります。
オーボエの音に合わせて他の弦楽器、管楽器がピッチを合わせて演奏が始まります。
弦楽器は、これは竹内さんが一番詳しいかもしれませんが、弦楽器は4本弦があって、どこも押さえない「開放弦」でaの音が出ます。
ならば、コンサートマスターが最初にのa音を弾いて、それにみんなが合わせれば良いのではないかと思うのですが、オーボエから始めます。
それには理由があります。
オーボエというのはピッチを変えるのが非常に難しいのだそうです。
ですので、まずオーボエが自分で音を出して、みんながそれに寄せて合わせるということが理に適っているそうです。
因みに徒然草の鐘は「お釈迦様入滅の2月15日から、聖徳太子没日の2月20日の五日間を音の基準とするそうです。
この5日間が寒暖差に左右されずない時期なのだそうです。
700年も前からそれに気づいていたというのは凄いお話だなと思って読んだ話でした。

4.食事 (会長) 

5.杉浦秀郎幹事 報告 

杉浦秀郎幹事  報告
杉浦秀郎幹事 報告

(1)新入会員についてご案内
(2)次週3月12日(水)は休会となります
(3)3月19日(水)例会終了後、理事会を開催いたします
(4)3月30日(水)は移動例会となります

次第をご確認いただき、お間違えの無いようにおねがいいたします

6.3月の会員記念日祝い (親睦活動委員会) 

3月に記念日を迎えた会員の皆さん
3月に記念日を迎えた会員の皆さん

7.委員会報告  

笠原昇悟出席委員
笠原昇悟出席委員

(1)出席委員会 出席報告 (出席委員会)

会員数        61名
出席義務者出席数  36名
本日の出席者数   48名
本日の出席率    85.7%
先々回の修正出席率 89.0%

古居一雄社会奉仕委員長
古居一雄社会奉仕委員長

(2)合唱修了コンサートのご案内 (社会奉仕委員会)

金子豊久ニコボックス委員
金子豊久ニコボックス委員

(3)ニコボックス報告  (ニコボックス委員会)
14件

8.本日の例会   

卓話者 堀尾 豊さん
卓話者 堀尾 豊さん

卓話  :『私の人生・そして遺言』
卓話者 :堀尾 豊さん
卓話担当:堀尾 豊さん

最初にお断りしておきます。
私は、豊橋で生まれたようでございます。
父は大学の勤務医でしたので、豊橋に出張した時に私が誕生したようで、豊橋の「豊」を取って私の名前が命名されました。
ただ、物心ついた頃には東京の目白におりました。
自由学園の幼稚園に通っておりました。
その時の思い出の中で、鮮明に残っておりますのは羽仁説子先生のお母様、もと子先生が、我々幼稚園児に向かってですね、意味はがらなくてもいいか、この言葉は一生忘れないでくださいと言われたのは「謙遜」という言葉でした。
私今でも鮮明に覚えております。
ただ、そういう人間になっているかどうかということは、自分ではわかりません。
私の人間の価値とか人柄は、自分以外の他人が決めることであってそういう生活ができているかどうかということはわかりません。

さて、当時は戦時中でしたので、高田第五国民学校という国民学校へ入学しました。
1年生の時に、私の大きな転機が訪れました。
その頃、東京医科歯科大学が出来る時期で、私の父が恩師である高橋先生のご指名でそこの教授になる予定でした。
しかし、辞令の直前に召集令状が来てしまいました。
それで父親は戦地に赴き、私共一家は収入も無く、東京にいる意味がなくなりました。
そこで安城に帰ってきたわけであります。
祖母がが一家の権力を握っておりまして、そこで大岡皮膚科を守っていてくれたのは、父の妹でした。
私達子供は仲良しでしたから感じませんでしたが、母親は辛かったと思います。
終戦を迎えたのは、小学校4年生の時ではないかと思いますが、幸いにも父親は1年以内に戦地から帰ってまいりました。
詳しくは知りませんが、父が皮膚科を継ぎ、妹は碧南市新川町に診療所を設けることになりました。

さて、私は東部小学校卒業しまして愛知青年師範学校の附属中学というところが入りました。
我々の学年は、学年で2クラスしかありませんでした。
3年間担任は変わりませんし、クラス替えも一切ありませんでした。
そこで知り合ったのが、3年生の石原勝成さん、2年生の野村秋博さんでした。
野村さんは最後に金城学園の第8代理事長を務められた方です。
私はと言うと野球少年でした。
野球に熱中しながらも入りたい高校がありまして、受験勉強は一応しておりました。
しかし距離の関係で通学不可になってしまい、どうしようかと思っていましたところ、弟が電車通学で東海中学に行くことになり、弟一人では心もとないしお前も東海高校へ行けと親が言いまして、私も興味はありましたし了承して東海高校を受けました。
東海は中高一貫教育なので、高校から入学するのは非常に少なく、16何人中5,6人ではなかったかと思います。
通学にですね時間がかかるものですから、名古屋で遊ぶということはできませんでした。
友達付き合いは悪くなかったので、友人には元名古屋市長や著名人がおりました。

さて、いよいよよ大学ですが、私の家系は皆医者でしたので、医学部以外は考えませんでした。
それから大学はです東京から大阪までと父に決められまして、その範囲内で受けられるところは受けた記憶があります。
ただ、名古屋は1つも受けませんでした。
言ってしまえば、家を離れたかったのです。
そこで受けた中で合格したのは日本医大と順天堂のみでした。
野球が大好きだった私は、大学に入っても野球やりたいと思っておりましたので、日本医大のがちょっと野球強いにではないかなと思い、日本医大に入学しました。
私はキャッチャーになりました。
関東医科大学リーグというものがあり、7チームで春秋リーグ戦をやっておりました。
その時は楽しかった記憶があります。

医学部というのは計6年大学生活がございます。
3年目以降の授業で興味を持ったのは皮膚科のみでした。
いつも想定問題がある試験が想定外だったりして再試験も受けたりしました。
4年生になり、全国をインターンとして回ることになりました。
とにかく回って、自分の方針を決めるわけです。
その時に。親友が「本当の医者になるには、大学院行って病理勉強しなきゃ駄目だよ」と言いました。
私も少し興味はありましたが、父親と「医者になるまで」と援助するという約束がありましたから、安城に帰った際に相談しまして、許可をもらいました。

インターンが終わり、所属は皮膚泌尿器科でした。
当時は皮膚科と泌尿器科が何故か一緒になっていました。
教授は泌尿器科の教授ででした。
大学院の病理というのは、様々な科から取った組織を顕微鏡で見て診断名を付けるわけです。
それからもう一つ大切な「遺体解剖」。
大切な患者様のご遺体を解剖しまして、顕微鏡で全臓器を見て新診断をつけます。
解剖して所見を書きますと、解剖医の資格が得られます。
私は解剖医の資格を一応持っております。

大学院を出て皮膚泌尿器科、しかし地方では泌尿器科でしたから、腎臓とか前立腺の手術の助手をしておりました。
3,4年勤めた頃、実家の大岡皮膚科が気になりだしまして、弟が京都の皮膚科に入っておりましたので、弟に「帰ってこいよ」と言うつもりで、家族会議を開きました。
そうしましたら私以外の全員が「お前帰れ。長男か。」と言われてしまいまして、その頃はまだ知識も乏しく困ってしまい、父の伝手で東京逓信病院の部長や副部長の診察日に横についてしふぉうを受けました。

そうして安城に帰ってきたわけですが、父が診療所を建てなかったものですから平屋建ての建物の環境は最悪な状態でした。
これはもう絶対に立て直さなくてはいかんと思って借金をして4階建ての診療所を計画しました。
途中材料費の高騰などの煽りを受けて、この借金をどう返していくのかと頭を抱えた物です。
とにかく患者さんに生きていてもらわなくてはとても返せない。
とにかくどこよりも安くどこよりも早く治すことに専念いたしました。
1日に200人ぐらい患者さんは来てくれました。
まだ診察無しで薬が出せたので何とかなった状態でした。
最高は700人弱でした。
そんなことで何とか経営は安定していきました。

もう一つ、非常に幸運だったのは、医師優遇税制があったことでした。
ただ医師優遇税制が外れて、所得税消費税がかかるまでの間は苦しかったです。
1億円税金残りは5000万以下でした。
働く意欲も少し失せました。

さて、話は変わりますが本当に便利な時代になりました。
1人に1台車があったり、携帯電話があったりと「生活が」便利になりました。
しかし、人間は悪くなっているような気がします。
非常に利己主義になりました。
介護問題でも、親への恩を忘れすぎているのではないかと思ってしまいます。

最後に、本日「遺言」と書きましたけど、願うのは「世界平和」です。
これは実現不可能かもしれませんけど、同じ動物同士でですね、殺し合いをするのは人間だけではないでしょうか?
喧嘩なんかは別ですけども、何の罪もない女の人や子供が殺される、更には立派な建物が破壊される。
私はこの「戦争」というものを何とか無くしたい、これは夢でではありますが、私の遺言と言いますか、本当に戦争のない平和な世界になってほしいなとに思っております。
ご清聴ありがとうございました。ありがとうございます。

9.閉会 (会場委員会) 

10.点鐘 

今後の予定 


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